わたしという光が誰かの光を灯す時
先日
父と共に見たディズニー映画、
塔の上のラプンツェル。
ほんと、名作的なアニメは
象徴的にいろんなメッセージがあって
感動するわー
以前、この主題歌だけは知っていて
映画を見る前から
去年ラジオでも話していた!
この映画の結末の展開が、
あまりにもわたしにとっては
衝撃的だった!!!
ありえない、
というか、
そこまでわたしは
考えられなかった。
そこまでも深い愛は
本人以上に大切なことを理解し
本当の光を教えてくれることを
その結末は教えてくれた。
わたし達はどうやって
自分の価値を決めているだろう?
やっぱり、
自分が何ができるのか、
という才能、
何を持っているのか、
という所有物や知識、
何をしてきたのか
という経験、
その他にもたくさん、
数え切れないほど色々な項目は
あげられると思う。
そしてそれらが
自分の持っている光でもあると
信じてきているし、
それがすごいのだと教えられ
それらをできるだけ増やして
それをさらに輝かせようと
わたしたちは努力する。
誰かのために、
愛する人の役に立てるために。
だって
それが喜びだから。
それが嬉しいから。
愛しているから。
愛されたいから。
でも、
(あ、ここからネタバレなので
まだ見ていない人は注意です( ´_ゝ`)ゞ)
この映画の最後に、
そうやってラプンツェルが
自分の持ちうる才能を使って
愛するユージーンの命を助けようとした時
彼は迷うことなく、
自分の命と引き換えに
その彼女の才能を消滅させてしまった。
彼女は愛する彼を救えるのなら
その才能を持つが故の制約を、犠牲を
自分自身の自由と引き換えに
受け入れようとしていた。
それでもユージーンは
自分が死んでしまったとしても
彼女の自由を選んだ。
自分のいのちより
彼女の才能を
消滅させることで、
彼女の夢を叶え、
彼女の幸せを選んだ。
彼女をそれだけ
深く愛していたからこそ
取れた行動だったと思う。
彼は、
彼女をその才能のために
愛したのでもなく
彼女がいることに、
彼女の存在そのものを
愛していたから。
その才能があってもなくても
彼女を愛していたし
その彼女の絶対的存在価値を
十分知っていた。
才能が、
そのギフトがあるからこそ
そのために様々な苦労や苦悩を
背負ってきたラプンツェルを
彼は自分の命をかけて
解放したのだった。
才能と呼ぶのか、
足枷と呼ぶのか、
ここまでくると
わからなくなってくる。
その才能は
人間に(魔女にも)とっては
都合の良いものともなり得た、けど
それだけのものだった。
人々が幸せに暮らし
国が平和に統治されるのにも
あったら便利だったかもしれないけど
それは必要なかった。
彼女がいるだけで、
彼女のその明るさと優しさで
十分どころか、
それこそ、それが一番大切だった。
彼女の存在が戻ってきたことで
幸せも、平和も、喜びも
戻るどころかさらに繁栄に繋がった。
その国はその喜びとともに
愛と光で満ちあふれた。
ラプンツェルが、
彼女がその真の
自分自身の存在という
光そのものに気付けたのは
ユージーンの正直な、
そして深い愛という
もう一つの光があったからこそ
奥深いところにあった
真の自分の光を見つけることができた。
自分自身という
そのすでに美しく輝いている
いのちの存在を。
灯台下暗しだったりして
自分のことは一番わかるようでいて
見えないこともよくある。
むしろ自分だからこそ
見たくない時もある。
だって、
それなしの自分が
もし無価値だと思われたら?
もし否定されたら?
もし受けいれられなかったら?
怖いよね:;(∩´﹏`∩);:
だから
誰かの光が
その真っ暗な闇へと
光を差し込んでくれた時に
希望が差し込み、
勇気を持つことができる。
そしてその
誰かの光とは
何か特別なことでなくって
ただ、そこに
存在するだけでいい。
わたしがわたしとして
ここに存在するだけで、
あなたがあなたとして
ここに存在するだけで、
すでに誰かの
この世界の
自分自身の光になっている。
だって、そもそも
わたし達自身が
光そのものなのだから。
そして
だからこそ
光であるとは、
光を差し込むとは、
誰かを
励ますのでもなく、
勇気づけるのでもなく、
助け出すのでもなく、
迷いも悩みも喜びも全てを
わたし自身が
ありのままにここに感じ
ありのままにここに生きること。
その美しさを味わう瞬間は
まさにいのち輝く
癒しのデリシャスモーメント♪(@´∀`p★)゚*。+゚★
ぜひ、ここでこのバージョンをどうぞ(・w・)
できたら大音量をおすすめ✨
メドレーなので他のディズニーソングも含まれてます。
こちらはこの主題歌のみ。
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