若くして配偶者と死別するということ。


自分だけは

違うのではないかと

どこかでは

そう思ってた。


自分だけは

特別なんじゃないかと

やっぱり

どこかで思いたかった。


けれども

そんな風に思うこと自体

人間にとっての 

当たり前のことに過ぎない。


みんな

自分だけ特別じゃないかと

思いたい存在だし

どこかで思い続けてるからね。


そう思っていたら

だれともそう変わらない

普通の正常な人間。


わかっていたけど、

この件に関しても、
それでも私自身は

それでも

私は違うんじゃないかって
私は特別なんじゃないかって

どこかで

思っていたんだよね。


でも、

当然のことながら
わたしもただの

いち人間でもあるんだ、

正直、

その当然すぎる現実が

受け入れ難い

そんなここ数日。


配偶者と死別した人は,悲嘆による衝撃が強く、孤独感、抑鬱(うつ)、疲労感、食欲不振などの身体症状が現れ 生活への適応ができず様々なストレスを体験する可能性がある。 配偶者との死別が人生で体験する数々のライフイベントのうち、最もストレスの多いイベントであり 非配偶者(子供,孫など)との死別の場合とは遺族に与える影響が異なることが考えられ… ------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------ 山梨大学医学部附属病院看護部の研究からも明らかなように、 配偶者との死別は、非配偶者である親子や兄弟、友人とは比べ物にならないほどの 悲しみやストレス、ショック状態に陥る可能性が指摘されています。 配偶者との死別は特殊な悲しみである上、さらに以下の国勢調査の通り 私たちは若年層の未亡人・寡婦という極端な少数派なのです。
若い世代で夫を亡くして、妻を亡くして、恋人を亡くしてという経験は、激烈な苦しみであり、その後も様々苦しむことが多い。けれども、周囲に同じ経験をした者がほとんどいないため、うまくサポートされず、またむしろサポートが重荷になることもある。「そろそろ前を向いて」という周囲や一般の価値観がプレッシャーとなってもがき苦しむ人も多い。自分自身でプレッシャーをかけてしまう例も多い。 真面目な人ほど、よし前を向かなきゃと頭で思い、でも心がついていかず、心や体に変調をきたしてしまう。 親にも親友にもわかってもらえなかったりすることも多く、または心配されているから話づらく元気なふりをしたりしてしまうことも多い。どんなに恵まれた環境でサポートを受けていても、どうしても理解できない部分が残ったりする。そのため、同じ経験をした人たちの言葉や経験談はとても大事なのだろうと思う。

友人

死別直後、友人との交流がとても苦痛になる人は多い。険悪になる人も多い。 傷つく言葉を言われて、苦しむ人も多い。 友人関係が壊れた例はたくさんある。 一方、友人の真価がわかって付き合いをやめる例もたくさんある。ただ、付き合う必要が本来なかった友人を選別できて、それはそれで人生にとって良かったとも言えるだろう。 苦しみのギャップがどうしてもある。 この壮絶な苦しみは、どうしても想像を超えたところにある。 しかし、どうしても幾らかの友人は自らの知識などに当てはめて理解し、人によっては 語り出す。最悪は道を説き、説教する自己満足の人もいる。 そういう言葉に傷つく例は後を絶たない。 どうしたって、この若年伴侶死別の苦しみや影響はほとんど世間には理解されていないので。 友人は友情で何とかしようとする。 友情で言葉をかけようとする。 でも、それは無理な話であろう。その友人が壮絶な死別経験がなければ。 こちら側も、気が立っているし、そもそも人を包容する余裕はないであろう。 直後でなくても、心の傷に無闇に触れられると痛みが走るだろう。 結局、その両者のズレが、友人関係の崩壊や、一人でいたいという思考になっていく。 死別者も少し視点を考えなきゃいけないのかもしれない。 壁で閉ざして、むき出しの傷を守る時間というのも必要ではある。 気がすむまでそうしていていいのではと思う。 でも、どこかで壁を少しずつ開く作業をするのも、風通しが良くなって 傷が治りやすくなることも多い。バランスなのかもしれない。 視点としては、周囲には完全に理解できる人はほぼいないという積極的諦めが まず必要かもしれない。理解してもらえない苦しみを裏返すと、どうして理解してくれないのという 嘆きが根本にあったりする。土台理解できないのだという諦めから行けるなら、少しだけ友人の 間違いや行き過ぎを余裕を持って流すことができたりする。 それ以上に、そもそも自分はおかしい状態で、普通でないのだから、理解しようがないだろうという 認識も大事なのかもしれない。

若い死別・若くして伴侶、恋人、夫、妻を亡くした人たちへ

死別直後、友人との交流がとても苦痛になる人は多い。険悪になる人も多い。 傷つく言葉を言われて、苦しむ人も多い。 友人関係が壊れた例はたくさんある。 一方、友人の真価がわかって付き合いをやめる例もたくさんある。ただ、付き合う必要が本来なかった友人を選別できて、それはそれで人生にとって良かったとも言えるだろう。 苦しみのギャップがどうしてもある。 この壮絶な苦しみは、どうしても想像を超えたところにある。 しかし、どうしても幾らかの友人は自らの知識などに当てはめて理解し、人によっては 語り出す。最悪は道を説き、説教する自己満足の人もいる。 そういう言葉に傷つく例は後を絶たない。 どうしたって、この若年伴侶死別の苦しみや影響はほとんど世間には理解されていないので。   (中略)
視点としては、周囲には完全に理解できる人はほぼいないという積極的諦めが まず必要かもしれない。理解してもらえない苦しみを裏返すと、どうして理解してくれないのという 嘆きが根本にあったりする。土台理解できないのだという諦めから行けるなら、少しだけ友人の 間違いや行き過ぎを余裕を持って流すことができたりする。 それ以上に、そもそも自分はおかしい状態で、普通でないのだから、理解しようがないだろうという 認識も大事なのかもしれない。



どれだけ

こころの健康や心理学や
スピリチュアルの学びをしてきたからって

自分がその専門家だからといっても
自分自身が

愛する人を失った現実と
その悲しみが軽くなったり

消えたり

変わったりするわけがない。


それでも


もしかしたら
いつか

何の間違いだったんだって

帰ってくるかもしれないって
悪い夢だったんだって
目が覚めるんじゃないかって

驚かせてごめんねって

抱きしめてくれるんじゃないかって


そんなありえないことが

もしかしたら
私にだけは

起こるんじゃないかって


期待しては裏切られることを

何度も何度も何度も何度も


わかっているのに


それでも

ずっと繰り返してる。


それでもわたしは

もうちょっと「正常に」

もうちょっと「まともに」

もうちょっと「しっかり」


病気じゃないんだし、

生きてるんだから


こんなことを言い訳に

頼ったり

泣き言言ったり

甘えるんじゃなくて


適応できるんじゃないかと

消化できるんじゃないかと

前に進んでいるんだと

生活できるんだと

いや、

そうしなくちゃと、

そうあらなくちゃと、

わたしは「特別だから」

そうできるはず!と


勝手に思ってた!!!!!!


ガーン!( ̄□ ̄;)!!ゴーン!(; ̄□ ̄;)!!ギーン!(; ̄□ ̄;)!


書き出して気づいたけどさ、

わたしもただの

いち人間なのにね。


どんだけマゾなんだって

気づいた!



そりゃ辛いよな(;´༎ຶД༎ຶ`)



自分の本質と繋がる時間を
継続してとっていて

改めてわかったことは


なんだかんだ言って
私の中では

まだまだ様々な感情が
まるで嵐のように

どろどろと渦巻いている事実。


たくみさんに

側にいて

生きていて欲しかった。


同じ辛くて苦しい思いをするなら

死ぬのではなくて

生きて一緒にしたかった。


一緒にともに味わい

人生を分かち合いながら

生きたかった。


そのために

その新しい人生のために

覚悟して

もう帰ってくるつもりのなかった

この国にまた帰ってきたし。


それだけが

私がここに今いる

理由だったのに。


愛する人とともに

人生を築き上げていくのだと

信じていたから


死なないって言ったのに

命かけて守るって言ったのに


一緒に

ハワイでの結婚式も

世界一周旅行のハネムーンも

行こうねって言ったのに


ずっと大切にするって

ずっと側にいるって

言ったのに


なんで死んじゃうの?


言霊で自由に

人生を創造できるって

言ってたくせに


なんでできなかったの?


なんでそんなすごい先生が

いっぱいいたのに

誰も直せなかったの?


なんでそれでも

病気治すとか

病気やめましょうとか

まだ言ってられるの?


いっぱいいっぱい

文句もわがままも言って

困らせたけど


悲しい思いも

させたはずなのに


それでも

そんな私を

ずっとずっと愛してるって

いつも自信を持って

伝えてくれた。


私のために

私が喜ぶように

私の笑顔のために


いつも考えて

頑張ってくれた。


それでも

痛くて

辛くて

苦しくなって


一緒に

お風呂に入れなくなって

歩けなくなって

寝れなくなって

触れることもできなくなって


悲しくて

悔しくて

許せなくて


タクミさんが

怒りをあらわにしたのを見たのは

病院で亡くなる三日前、

私に触れようとして

体が思うように動かなくて

悔しくて、

その拳を

一気にベッドに叩きつけた時、

その一回だけ。


それでもまだ、

奇跡が起こると信じてた。


わたしたちは

「特別だから」。


絶対死なないと、

思ってた。


死なないって言ったし


それまでも

ありえない奇跡みたいなことを

いっぱい可能にしてきた

私たちだから


これもまたネタになって

また笑える日が

絶対来るんだと

信じてた。


それだけ

わたしたちは「特別だから」

生きてともに

使命を果たしていくのが

当然だと思ってた。


目の前の現実は

数値の意味も画像の意味も

その単語の意味も日本語の意味も

もちろん全部わかっていたけれど

全くもって逆方向へ

確実に進んでいたのかもしれないけど

まったく受け入れられなかった。


そうでもしないと

辛くてそれこそ

生きていけなかった。


もう死ぬのだと

わかっていたら、

受け入れていたら、

何か変わっていたかもしれない。


結婚式も挙げて

ハネムーンも

行ってたかもしれない。


これからだったのに。


でも

たくみさんも

普通の人間として

肉体が機能しなくなり

死んでしまった。


そんな風になってしまった

たくみさんにも

わたしにも

そんな現実にも

そんな人生にも

そんな運命にも

怒りと憎しみが湧き上がる。


なんのために今

生きてるんだろう。

なんのために今

ここにいるんだろう?

なんではやく

死んでしまわないのだろう?


ずっとそんな問いが

何をしていても

たとえ笑顔でいようとも

頭の中では

延々とループになって

朝起きた瞬間から

起きている間

ずっとずっと

繰り返してる。



それでも

そんな私の中に

小さな希望があるんだと

ようやく感じるようになって


そんな私だけど

誰か側にいて

それでも大丈夫なんだって


それを見失わないように

それを壊さないように


守ってほしいと

愛してほしいと


それでも

生きてていいんだと

それでも

私にその価値があるんだと

確認したくなる。


その耐え難い悲しみは

誰にもわからないのだと

わかっていても

そう思ってしまう。



そもそも自分はおかしい状態で、普通でないのだから、理解しようがないだろうという 認識も大事なのかもしれない。



愛する人と死別するとは

そういうことなんだかね。


正常な状態じゃない。

普通の状態じゃない。

理解しようと思って

理解できるものじゃない。


これは言い訳とかではなくて
やっぱり事実というか、
そういうことなんだろうね。

経験したことのないことは
結局のところ

本当に理解したり

わかるはずはないのだから。


だから
本当は誰かにわかってほしいという
切実な願いはあるけれども
誰にもわかってもらえないという
落胆と憤りと苦しい思いもあるけれども
仕方のないことなんだよね。


わたしだけは

もしかしたら「特別だから」

誰かにわかってもらえたり

するんじゃないかって
ここでも思ってはまた
勝手に期待して
勝手に裏切られた気分になって
勝手にがっかりするという繰り返し。



そもそも自分はおかしい状態で、普通でないのだから、理解しようがないだろうという 認識



そういう思いを持つこと自体が

こういう状況においては無難なんだね。

こんな状況だから

おかしい状態は普通。正常。


だから

そんなおかしな状態なわたしだけど

そんな私を受け入れてあげられるのは

それを体験しているこの私しか

やっぱり

その本人しかいないんだよね。







だいたい5年ぐらいだね。





まともに生きていく感覚が
戻ってくるまでに。




私が出会ってきた

経験者は皆、まるで

打ち合わせたかのように

そう教えてくれる。




5年。




通訳をたまに務める

金星11次元のアシュタールにも

タクミさんの亡くなった2週間後に導かれ

そのチャネラーをするテリーさんにも

同じことを言われたから

宇宙的に見ても

地球人的にも

そうらしいね笑
(テリーさんはご主人を2回、

つまり2度亡くした経験を持つ。)



若くして配偶者との死別を経験するのは

10000人に3人とかの統計確率。

それなのに

探してもいないくて

偶然のタイミングで

すでにそれ以上の人たちに出会ってるって

すごい確率だよね。

(やっぱりそこらへんはわたし特別(o´ω`o)ぅふふ


でも5年て長いよね。


でも、
考えてみると
もうあと3年半か。


そう考えると
あっという間なのかな。


まぁ、だいたい
それぐらいって目安だしね。


喪失の悲しみを癒す
グリーフケアの権威

ウォーデン博士は

こう言っている。



グリーフ・カウンセリングを
通してできる教育の基本は、
人々に、
悲哀は長期に渡る過程だということ、
そしてその終局は、
悲嘆以前の状態には戻らない
ということに気づいてもらうことである。
(J.W. ウォーデン)



つまり、

大切な人を失った悲しみは

この先もう、

一生なくなることはない。


忘れることはない。


自分自身が死ぬまで

この記憶と一緒に

一生生きていくしかない。


失う前のような

無邪気な幸せや喜びは

もう2度と持てない。


知ってしまったから。

経験してしまったから。


かと言って

それでも一生悲しみ
苦しみ続けるのではなく
それにも終わりがやってくると言う。



悲嘆が終わったことを示す目安は、
苦悩なく死者を思い出せるようになった時である。
愛した人を思う時、
悲しみが伴うのは当然だが、
死別当初のように号泣したり胸が痛くなるような
身体的な痛みを感じることがなくなれば、
再び生活に悲しみ以外の感情を持つことができる。



それがみんなの言う

5年後の状態なのかな。


意図しなくとも

毎日涙を流しては

悲しみと共存している。


でもそれは

わたしの毎日に

悲しみしかないのとは

全く違う。


毎日に

喜びも、幸せも

愛も、楽しみも、

感謝も共存してる。


けど

人は

私が笑っていれば

私が喜んでいれば

私が楽しんでいれば

もう悲しくないのだと

もう終わったことなのだと

もう整理されたのだと

勝手に勘違いするよね。


隣にいて当たり前だった愛する人、

そのタクミさんのいない毎日は

どんなに楽しいことがあっても

どんなに嬉しいことがあっても

それがまた余計に苦しくもなる時がある。



でもね、

それが

若くして配偶者を亡くした人が

みんなそれぞれたどる経験。


わたしだけに

特別な思いとか経験では

ないんだなと

改めて自覚したよ。


みんな
それぞれに
眠れない夜や
いたたまれない日常を
なんとか生きている。


その周囲の人たちも
どうしたらよいかわからなくて
いたたまれない思いを
しているのかもしれない。


そんな人たちには

こちらをぜひ
読んでいただきたい。

若い時に伴侶や恋人を亡くして苦しんでいる人を支えたい人へ

周囲に大事な人を亡くして苦しんでいる場合、どうやって支えればいいのか、多くの人が疑問に思いつつも、自分なりの優しさで行動するでしょう。ところが、その優しさがあっても、最愛の人を亡くした時に周囲の人にかけられた言葉や反応で傷つけられたり苦しめられたりする事がとても多い。 そして、そういう敏感な時期なので、ずっと心の奥にわだかまりとして残ってしまい、親友関係や親子関係が破壊される例も少なくありません。 周囲の支えたい人は傷つけるつもりはないのは当然ですが、どうしても心の奥までは想像できずに、相手を傷つけてしまうことは多いようです。 葬儀や通夜といった直後には、周囲の人はあまり言葉はないほうがよいです。理解してるようなことを言っても通じないし、反感を買うこともあります。どんなにその人を思って言っても。絶望の闇にいる人間は自己中心的で余裕がなく、言葉はほとんど何も届かないのです。 支える人が言いがちで、傷つけたり、追い込んでしまったりする言葉の例をあげます。「そんなに悲しむと・・・」「亡くなった人の分も」「意外と元気そう」「何か意味があると思って」「神は乗り越えられない試練を与えない」「もうそろそろ」「前を向いて」これらは、その後何年経過しても言ってはいけません。支える気持ちだけを受け取るというような器用さが死別者の側にもあればいいのですが、余裕がないのでなかなかうまくいかないようです。周囲から見て、前向きであってほしいと切に願うのは当然ですが、本人のプレッシャーになることがほとんどですし。毎日毎日を過ごすことだけでも莫大なエネルギーをつかって生きていることなので、それを前向きと評価してあげてください。うつむいていても、心の中は前向きに闘っていることは少なくないのです。実際、これほど生きる事に闘っていた時期は、自分はその他に経験がない。 基本の心持ちとしては、「あなたの気持ちはわかってあげられないけれど、 いつでも話を聞いてあげられるという気持ち」で、そばにいながら、そっと見守ることが大事だと思います。相手が急に泣いても、だまっても構わず、話をし始めたら聞いてあげる。道徳的、倫理的には間違ったことを言ってもきつく訂正せず、そう思うんだねと聞いてあげる。そして、相手が望むだけ心を休ませてあげることです。客観的にみて、そろそろ前向きのほうがよいのにと思っても、休ませてください。

若い死別・若くして伴侶、恋人、夫、妻を亡くした人たちへ


こういう

世間一般的に

ひとくくりして
こうなんだっていうのは
好きじゃないんだけど
やっぱりそれでも
人間としての生きる過程には
ある程度パターンがあるものなんだよね。


ひとりひとりは

もちろん

唯一無二の存在でもあり

そしてわたしたちは

それでも

おおきな一つの存在でもあり

あなたとわたし、

わたしとあなた、

人類としての

生物としてのわたしたちが在る。


同じパターンを

同じプロセスを

同じ思いを

同じ経験をしている。


それを知った時に

あんなにも

自分だけは特別で

自分だけは違うんじゃないかと

期待して、そして

思いたいくせに


自分だけじゃなかったこと

同じような思いをしている人が

この世界に存在していること

自分が感じているということは

至極当然のことであるということに

わたしも普通の人間だからこそ

当然の反応をしているのだと

それがわかることに対して

こんなにも

安堵を覚えるものなんだね。





やっぱり
愛する人を失うということは
すごく大きな大きな喪失なんだ。

そう簡単にどうにかできる
そんな些細な日常じゃないんだ。


誰しもが

おかしくなるくらい

心が潰れてしまうような

痛みと苦しみを味わうものなんだ。


それだけ

大きな大きな大切なものを

大事な思いを、愛を

今、わたしは
全身全霊で消化してるんだ。


そうやって

わたしはわたしなりに

一生懸命

今を生きている。


それでも生きることを

そうやって生きる私を

すべてを受け入れられる

大きな大きな愛そのものである

私の本質を

なんとか思い出している。




明日は満月だ🌝

誘導瞑想番組と

満月ハーブティ

お楽しみに♪

お申し込みは明日まで♪

Dr.Mami Yanai

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