わたしがわたしを生きることへのジャッジメントを手放すこと
さて、どうやらこの時期、
今めっちゃいろいろと
変容進化なシンクロ中ですね☆
・゚.:*:( ´∀`)ノ
わたし自身獅子座新月から
怒りと絶望感で全細胞が沸騰!?
しっかり週末寝込みましたヘ(●´∀`)ノ
そんで持って周囲の友人たちも
いろいろと感じていて
いろいろと変容しているようで
まぁ、そういう時期なんでしょうね。
もう隠せない、
もう放置できない、
もう曖昧にはしておけない。
だって気づいてしまったのですよ。
自分自身のジャッジメントに。
ジャッジメント、とは
ウィキ先生は
ジャッジメント(Judgment / Judgement)は「審判を下す」「判決」などを意味する英単語。
と解説されてますが、
要は非難・批判すること。
生きていく上で、
そうしたくなる状況や
ひと・もの・ことに
遭遇することもある。
しかも一番身近な家族、とか
恋人、友人、会社、とか。
わたしは
母が自分を犠牲にしてまで
自分のことを疎かにしてまで
いろいろとしてくれることや
周囲の世話を焼くことが
嫌で嫌でたまらなかった。
(今でも嫌だけど)
そして何十年もそうだと
結果それが当たり前のようになる。
滅多に感謝もされなくなる。
そしてなによりも
一番嫌なのは
良かれと思ってやってくれても
こっちは望んでいないことだって
あるということ。
むしろ
足枷になることだってある。
自由を、成長を、自立を
奪うことにもなりかねる。
いわゆる、大きなお世話、
ってやつですね。
しかし、そこで受け取らないと
ここまでしてやってあげてるのに、
という不満感と苛立ちが爆発する。
そもそも、
やっぱり我慢して、
自分を二の次にして
その不満をため込んで
やってきたんだもんね、
当然だよね。
だったらやめればいいのに(´・д・`)。
そうやってわたし自身も
子供の頃から不満を抱えていた。
でも、
まぁまぁわたしも大人になったから
わかるようになったことがある。
そういう歴史が
そういう習慣が
結構何度も何度も
繰り返されてきたのだろうね。
おそらく
祖母もそうやって
母を育ててきたのだろうね。
それが当たり前の時代、
そうしなくてはならなかった事情
そうさせられた家庭環境、
それしか知らずに
それでも
一生懸命に
ここまで生きてきて
自分の大切なものを
愛する存在を
いのちをかけて愛するために
生きてきた人生なんだよね。
だからこそ、
怒りと絶望感沸騰な
わたしのジャッジメントの
その矛先は、
母ではなく
わたし自身だった( ̄▼ ̄|||)。
そんな母の姿を嫌だ
むかつく、やめてくれ、
と思いながら
わたし自身も知らないうちに
誰かのために、
コミュニティのために、
会社のために、
わたし自身を
無視していた(இoஇ; )
しかも!
それがまた
わかっていなかった!!!!!(இ罒இ)‧º·˚
だって、
それがわたしが知っていた
愛情のかけ方だったから。
わたしのことを
一番愛してくれている存在が
そうやってわたしを
ずっと愛してきてくれたから。
だから
わたしもそうしないと
ここまでその愛する人が
我慢して、
頑張って、
自分を犠牲にして、
ここまで愛してくれたのだから、
わたしも
我慢して、
頑張って、
自分を犠牲にして
愛さないといけないよね?
自分がどれだけ
悲しくても
悔しくても
嫌でも
理不尽でも
不公平でも
それを隠して
なかったことにして
それでも
あなたのためよと
わたしも嬉しいと
尽くすことが
受け入れることが
当たり前なんだよね?
愛なんだよね?
そうできないわたしは
ダメな人間なんだよね?
我がままで
自己中心的なんだよね?
それらが全部、
わたしにたいするジャッジ。
代々受け継がれてきた
この痛みを感じないこと
その傷を放置すること
繰り返していくことを
正当化するための行為。
だってさ
その痛みを感じたら
その傷を見つめたら
繰り返してきたわたし自身を
一番許せなくなる。
非難しておきながら
わたし自身も結局同じことを
わたし自身に対して
ずっとずっとしてきたのだから。
その痛みを
察知していながら
ずっと
なかったことのように
感じなかったかのように
わたし自身の声を
無視してきたのだから。
(麻痺していたから仕方ないけど)
その痛みを
放置するとどうなるかを
自分の人生をかけて
母がずっと見せてきてくれていたのに
わたし自身は変わらずして
わたし自身を正当化して
その母に対して
ずっと非難し続けてきたのだから。
(母が祖母にしてきた様に。)
わたしが
わたしの責任で
わたしの人生を生きいくために
わたし自身を幸せに
わたし自身を喜ばせることが
できるという自信を
わたし自身が培っていくために
わたしにとって必要なことは
わたしを正当化することではなく
誰かを非難することでもなく
まず、
そこにジャッジがあったことを
ジャッジしてしまったわたしを
してきてしまったことを
ただ受け入れること。
そしてそのジャッジの奥には
正当化することで守れると思った
痛みを生み出した傷が存在しているのを
見つけてあげること。
その放置されてきた痛みの
その存在を尊重すること。
その痛みが教えてくれるのは
その傷を癒せる力を、
優しさや寛容さや許容するこころを
今日まで、ここまでの人生において
世代間も超越して
ずっとずっと育ててきたということ。
そうやって
ずっとずっと繰り返しながら
世代間を、時空間をも超越して
それでも進化してきた
すべてを許すことのできる愛の本質を
今日のわたしが発露できる時が来たからこそ
その痛みを感じる十分な強さと勇気と覚悟も
全て揃ったのだということ。
もう
戸惑うことなく
遠慮することなく
隠すことなく
責めることなく
罪悪感を感じることなく
幸せになっていい。
喜んでいい。
楽しんでいい。
自分の嬉しいを
大切にしていい。
わたしがわたしを真に生きることへの
ジャッジメントをもう解放していい。
わたしがわたしを生きていい。
今日のわたしが幸せになるために
たくさんのたくさんのいのちが
繋がってきたからこそ
まさにおかげさまの
デリシャスモーメント✨(இ௰இ)
全てに感謝🙏
ラジオでも話してみた⬇️
よかったら聞いてみてね♪
ちなみに第888回でホンマルラジオ卒業いたします。
その後も引き続き、いつでもどこでもバックナンバーは
聞けますのでご安心くださーい♪
そして今後はまた別の形で個人でラジオ配信継続します!
どうぞご一緒くださいね❤️
ありがとうございます🙏
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