生まれ変わり続けるということ
コロナのおかげで
ずっとこの半年間考えていたけど
結果として手放すことを決めました。
それはわたしにとっては
現実的にも象徴的にも
大きな意味のある場所で
だから半年もの間決めれなかったけど
でもそれがまた、わたしの
わたしなりの前に進む決断。
まさにわたし自身がもう
既にそこにいない、
思い出だけがある場所。
愛する人が死んだ後
その人の洋服とか持ち物とか
なかなか捨てられない、というか
捨てたくないというのと多分一緒。
ほぼ半年ぶりに戻って
最初の1日目は、身体中が痛くて
3年前のわたし自身のようだった。
それほど極限のストレス状態にいたのだと
今だからわかることができる。
当時はわかっていなかったんだよね。
フラッシュバックと呼ばれたりするけど
記憶が蘇るのに条件としては
その時と似たような状況が一番効果的。
その場所に戻ってきたわたしは
まさにフラッシュバックであろう現象の
蘇る全身の痛みと悲しみと絶望感に侵される(;´д`)
当時はだから寝込んでたのよね。
この嫌なのに懐かしい
落ち着かないパニック感。
もう十分味わってきたから
もういらないよ、もういいよ、
もう勘弁してください(ノд`ι)
だから最初は早く帰らないと、
さっさと帰ろうと思っていて。
だって嫌なんだもん。
体も痛いんだもん。
辛いんだもん。
でも、
でも、
今回は
たくみさんのお骨の前で
お香を焚きながら
瞑想をすることを決める。
からだが記憶の奴隷になっているのを
解放してあげる。
(実際の思考が人生を作るという上で
左側のパターンが自動化したのを
右側のパターンに戻してあげる)
この為に毎日徹底的に瞑想を
練習してきてたのかもしれない、
とさえ思えてくる。
わたしにとってこの場所は
そんな
トラウマだけの残っている場所では
なかったはずなんだよね。
それさえも
なかったことにしたくないよね。
そのままにして帰りなくないよね。
そのままにして
いなくなりたくないよね。
そのままにして
前に進めるはずがないよね。
そのままにしたら
一生引きずるよね。
生まれ変わり続けるって
宣言し続けてきたこの1ヶ月だからね。
その為の勇氣と慈愛を発露するって
わたし自身が体現して生きていく。
瞑想しながら
その溢れ出る感情に
体の記憶に慣れていく。
しっかりと
蘇らせてあげる。
今回は
避けることなく
目をそらすことなく
全てを受け止める。
こんなにも
その時のわたしと
それからのこれまでのわたしは
抱えてきてくれたのだと
愛おしくなるほどに
喪失の悲しみと絶望感と悔しさで
満ち溢れていて待っていた。
これまでも
何度も何度も何度も何度も
味わってきたその感情を
手放すと意図して改めて
「喪失の悲しみと絶望感と悔しさ」を
言葉にした時、
それらと同義語だった
「深い愛の喜びと感謝」が
溢れる涙と共に
まるで抽出されたみたいだった。
もう、後者を感じるために
前者も毎回一緒に蘇らせる必要は
わたしには必要ありません。
これまでありがとう。
それらをここまで感じられるまで、
ここまで受け取ってあげられるまで
約4年もかかったのだね(*´ー`)
それまでたくさんのことひとものに
お世話になりましたが
それはいつでも同じことだね。
大変であろうとなかろうが
私たちはみんな繋がってるしね。
だから結局
わたし自身なのだよね。
もう既に
現実のわたしは進んでいて
もうそこにいないのに
その記憶の中に住み続けるか
それとも今に戻ってきて
ここに、今を生きていくのか。
今日のわたしは
今日のわたしを生きている。
それが毎日
生まれ変わり続けること。
まさにいのちの輝く美しさを味わう
デリシャスモーメント💖
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